むかーしむかし、オーストラリアで留学していたときのお話。

「英語のアクセントがおかしいから、オーストラリア人の英語は、聞き取れない。もっとしっかりしゃべってくれよ、オーストラリア人」という日本人がいました。
あぜんっ。
でした。
「アクセントが米国英語とちがう」という相違点をいうのは、わかりますが。。。オーストラリア人の話し方がへんだから、もっとちゃんと話せというのは、なんの説得力もありません。
みんな、それぞれの国で、それぞれの言語を話しているわけです。郷にいれば郷にしたがえ・・・という以前の問題です。
そう考えると、世界中で60億人がそれぞれの価値観でそれぞれの愛情で60億種類の言語をもっています。
「あの人の言ってる意味がわからん」とか「あの人の言ってることは理解不能だ」とか「あの人の意見は理不尽で納得いかない」とかってあるのではないでしょうか。だからといって、あの人の価値観を批難し、修正しようとするのは、米国アクセントで話さないオーストラリア人は不届きものだといっているようなものかもしれません。
しあわせのボーダーラインというのがあります。
とびっきりしあわせ、けっこうしあわせ、まぁまぁしあわせ、ちょっとしあわせ、うーんしあわせかも、しあわせとは・・・、という変化があるとしたら、考え方として、うーんしあわせかも、と、しあわせとはいえませんなぁのボーダーラインがあります。
とびっきりしあわせとは、すべての価値観や考え方を受けとって、氣にならないレベルです。どんな理不尽なことをされようと、言われようと、氣にならない。それどころか、すべてが祝福に感じられる。そういう状態。
けっこうしあわせは、すべての価値観や考え方について、ある程度理解できて、「まぁ、人それぞれやわな。しあわせでありますようにね!」というレベル。
まぁまぁしあわせ、ちょっとしあわせあたりだと、すべての価値観は受けとれそうにないけれど、そこはぐっとこらえて相手のしあわせを願うレベル。
うーんまぁしあわせ・・・かも・・・なぁというのは、相手の価値観は変えづらいけど・・・それでも、変わってくれたらなぁ・・・というレベル。
しあわせとはいえませんなぁというのは、相手の価値観は納得いかん! 今回の件がどうであれ、そのことを教えてやらねば・・・という正義漢レベル。
さて、ことをシンプルにするために、最初の自分の英語力をオーストラリアアクセントのせいにする日本人について考えます。
この人は、「オーストラリアアクセントだと聞き取れないから、オーストラリア人が米国アクセントで話すべきだ」と怒っているわけです。
なぜこの怒りが湧いてくるかというと、「自分の英語力がないことから目を背けたいから」です。そこから目を背けて、怒りに転嫁しています。
会社がもっと近ければ、俺は遅刻しない! という人は、会社が隣にあっても遅刻します。遅刻がわるいと思っている人ほど、態度がでかいということを目にしたことがあるのではないでしょうか。
自分の英語力が足りないのが悪いと思っている人ほど、外人に対してでかい態度をとるということもあります。
このことは、いろいろな面から見ることができますが、大きく分けて2つあります。
1つは、罪悪感。1つは、恐怖心です。
英語が話せなくてもべつに現状しかたのないことで、わるいことでもなんでもありません。けれど、なんとなく、外国に来て、英語が話せないと罪の意識を感じてしまう。そうすると、根拠のない罪悪感と闘わなければいけませんので、怒りに変換するわけです。
恐怖心というのは、ここでいうのは、まわりの目や評価を気にすることです。というのも、例の日本人は、わたしに対して「オーストラリアアクセントは聞き取れないからなんとかすべきだ」といっています。この人、けして、オーストラリア人に「きみたちは、わたしに対して、米国アクセントで話すべきだ」とはいわないのです。
恐怖心は、やや複雑なメカニズムですが、人に評価されるのが怖いから、いかにも「米国アクセントだったら聞き取れるんだ」といいわけしたくなるのです。
遅刻をわるく評価されるのが怖くて「家が遠くなったから・・・」と言いたくなります。いかにも「家が近ければ遅刻しません」と言っているようですが、お門違いというものです。「あのとき、カーブが来ていれば、ホームランが打てたのに」という一流のバッターは観たことありません。
自己啓発セミナーなどでは、「○○かのようにふるまう」というのがあり、お金持ちになりたければ、お金持ちかのようにふるまうことが願望実現の近道といわれます。
それの亜流で、「いかにも○○かのように喧伝する」コミュニケーションがあります。
「英語なんて、下等な言語だからしゃべれなくていいんだよ。わっしゃっしゃ」という愉快なおっちゃんに昔あったことがありますが。。。こういう人は、確実に「英語がしゃべりたい欲求が高い」です。また、いかにもフランス語かドイツ語がアラビア語か、なにを上等とするかはこのおっちゃんしだいですが、上等な言語の1つや2つならしゃべれるというニュアンスが含まれます。
本人がそれでしあわせならいいですが、こういうことが重なるデメリットとしては、「本気でコミュニケーションしてもらえなくなる」ことです。
なにか含蓄があるならべつですが、たんに「家が遠くて遅刻した」「オーストラリアアクセントだから聞き取れない」「下等だからしゃべれなくていい」と聞かされても、からみづらい。
たんなる自己正当化にすぎません。英語が話せないこと、遅刻したことを正当化して、他人につたえることで、自信にしたいというながれになっています。たとえば、だれかに「家が遠くなって、よく遅刻するんです」といって、「そうなんですね」と言われれば、「やっぱり家が遠いという理由は正当なんだ」という変な自信がつきます。
おもしろいもので、米国アクセントをあるていど聞き取れる人が、「オーストラリアアクセントが聞き取れなくて困ってるんだ」と言えば、「ほぉ。そうなんですね。どういうところがむずかしいですか? ○○の方法がよかったですよ」とかいった展開になり得ます。
しあわせな願望実現とは、人の本気ですなおなコミュニケーションが重なってできるものだと思います。人の本気のコミュニケーションを得るには、まずは自分のすなおで本気なコミュニケーションからだと思います。
すべてを本気で・・・というのは、少し暑苦しい感じがしますが、すべてをすなおに・・・ということを心がけていれば、信頼関係は自然に深まって維持されていきます。
そのためにできることは、罪悪感を少しずつ手放すことです。
とてもシンプルなことなので、とてもむずかしいことだともいえますが。。。
まずは、なにがあっても、「自分がわるいわけじゃない」といいきかせることが有効です。
そして「自分が○○をやったから、××な結果になった」と整理すること。
だから、自分は誠実さのあらわれとして、▲▲をしよう! ということです。
それから、ふだんできることといえば、「人をゆるそうと試みること」です。そして、自分をゆるすこと。これについては、まだまだ説明が長くなってしまうので、また別の機会に。
あっ、それから、「ごめんなさーい。どぅぁ〜〜〜〜!」と元気よく謝るといいそうです(笑)
たしかに、よわよわしく「
ごめんなさはぁーひ」というのは、「わるいと思ってますよ。だから、それをゆるさないあなたはちっちゃいですよぉ。ゆるしてくれ・・・ます・・・よ・・・ね」という意図が含まれるのかもしれません。弱腰で、「あやややぁ、ごめんなさはひ」というのは、一種のアピールと受けとられてもしかたない部分があります。
どうせあやまるのであれば、罪悪感を捨てて、お腹にちからを込めて「ごめんなさい。どぅぁ〜〜〜〜〜〜〜〜」と言われたほうが気持ちいいというのは、一理ありそうです。罪悪感を捨てて謝るというのも矛盾しているようですが、自分で自分をゆるしたうえで誠意をもって接すれば、自然にまわりはゆるしてくれるものなのでしょう。
『あなたを危機から救う一分間謝罪法(ケン ブランチャード著)』がベストセラーになりましたが、ホントの謝罪は、1分もあればできるんでしょうね。
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