諸説ありますが、3~4歳頃の第1反抗期と13~14歳頃の第2反抗期。
反抗期になんの意味があるかも諸説ありますが、わたしはいずれも、自己確立のためだと。
とにかく「No」ということで、自分の存在を確認します。
それは、まぁ、いいのですが。
大人にも、反抗期はあります。
自分の存在価値を示すために、とにかく「反対」します。
これといって理由はないのですが、反射的に反対します。
上司のいうことに「Yes」だと、自分の存在してる意味がないんじゃないかと不安になるのです。
ようは、人は、12年周期くらいで、「自分探し」をしたくなります。
そのとき、他からの意見はとりあえず排除するように「反対」するシステムが働きます。
大人になってからの反抗期は「慎重に検討したうえで反対」しないと、効率がわるい。
反射的に反対するだけでは、混乱が増すだけでうまくいきません。
映画『イエスマン』ではないですが、肯定的姿勢が重要です。
歌手の美空ひばりさんは、どんなに大御所になっても、音楽プロデューサーからの意見に「No」と言わなかったそうですが。
少なくとも「「イエス」と言えないだろうか?」という可能性を探る余裕くらいはもちたいものです。
そうすると、徳も上がるっちゅうもんです。
まず〜い食事が出てきたら・・・
感じ方はいろいろ。
食事ができるだけで、しあわせだと感じる人もいれば。
食事ができるだけでもしあわせだと考えるようにしようとする人もいれば。
食事がまずいのは、しごとをがんばらなかったからだと思う人もいれば。
おいしい食事ができるようにがんばろうと思う人もいれば。
まずい食事を出した人を怒る人もいれば。
なぜこんなにまずいんだろうと悩む人もいれば。
良薬口に苦し、とわけわからんことつぶやく人もいれば。
おいしい食事の思い出にひたろうとする人もいれば。
まずいと感じられるこころに感謝する人もいれば。
世の中、いろんな人がいる。
苦手意識とはどこから発生するのか?
不思議に思ったことはないですか?
電話が苦手とか。
だれかのことが苦手とか。
算数が苦手とか。
なぜ、苦手なのか考えても「苦手なものはしょーがない」といった感じのこと。
これって、「無意識」と「観念」で決まってます。
まず、「無意識」ですが、無意識にも性格や得意不得意があります。
苦もなく算数はできるのに、なぜか英語は苦手とかって、それぞれの人にあると思います。
これって、無意識が積極的かどうかで決まります。
意識できるのは、これは好き、嫌い、得意、不得意ということを知覚できるだけです。
ってことは、得意かどうかは、無意識が決めてます。
つぎは、「観念」のほうですが、これは、習慣や人生経験によってつくられる「思い」です。
たとえば、算数が苦手でも習慣的に継続して勉強しつづけていたら、いつのまにか好きになっていたとか。
逆に、フランス語がとても好きなはずなののに、1度もフランス語を勉強する機会がなかったので、苦手だろうと思い込んでいるというのも、勉強する機会をつくらなかったという人生経験からくる苦手意識。
ようは、はじめから無意識の性格によって決まっている苦手意識と経験によってつくりだされた苦手意識と2つある。
いずれにしても、それらの苦手意識は、人生経験や習慣によって変えられる。
ということは、苦手意識は、気にしなくていいのではないかと。
なにをやりたいか、が重要かと。
なにが得意かではなく。
なにがやりたいかによって、得意不得意は変わっていくはず。
というわけで、重要なことは、苦手意識ではなく、なにがやりたくて、それをいかに実現するかということ。
月1で1年間開催してきたワークショップリーダー養成講座が終了しました。
リーダーシップ、プレゼンテーション、自己表現がテーマ。
終了して、あらためて考えてみると、みなさん、やりたかったことを実現しつつありました。
13:00〜21:00までみっちり深いテーマをやりました。
1人ひとりにそれぞれ1つずつ独自の人生(物語)があって、その物語のリーダーはというと、自分自身ということになります。
途中で交わったりすることは、あるけれど、AさんにはAさんのストーリーがあって、BさんにはBさんのストーリーがあります。
自己表現とか自己実現は、いかに自分の人生のリーダーであれるかということだと思います。
でも、ついつい、他人のストーリーに紛れ込んで、リーダーシップを発揮したいと思ってしまうものですが。
他人にちやほやされたくて歌手になるというのと、自己表現として歌手になるというのでは、結果は自ずと変わってくる。
どちらがダメということはないけど、結果は確実にちがうものになります。
自分の人生のリーダーシップを発揮しているか、他人の人生に紛れ込んでいるか、見分けるのはむずかしいかもしれませんが。
ちやほやされたくて歌手になるなら、それは、ちやほやしたい人のストーリーに入り込むことになります。
そうすると、どれだけ歌がヒットしても、自分らしい人生を生きている・・・とは思えなくなります。
ちやほやしたい人の人生に巻き込まれてしまっているだけになってしまう。
これでは、人生、満たされない感覚があっても、しかたがない。
作家/自己啓発家の本田健さんがさかんに「ライフワーク」というのを啓発されてますが、まさに、自分の人生でリーダーシップを発揮するかどうかが、ライフワークかどうかのわかれめだと思います。
日曜日は、7デイズキャンドルセミナー。
おかげさまで、楽しく終了〜。
地道にというか、地味に広がりつつある7デイズキャンドル(願望実現)。
そのうち、7デイズキャンドルをやったことある人は、キャンドラーと呼ばれることでしょう。。。ないか。
キャンドラーってチャンドラーとかバンドラーとか、人の名前みたいだからなぁ・・・そういう問題じゃないか。
最近、読んだ本に「運命は99.9%決まっている」と書かれていた。
わたしが目にした本のなかでは、もっとも決まってる率が高かった。
まだ「運命は100%決められている」と書かれた確かな本を見たことはない。
0.1%でも決まっていない運命があるなら、それで十分。
確率が何パーセントでも、実は、あんまり関係ない。
「運命を変えることがあなたの運命だったのよ」とか言われたら、頭こんがらがるしね。
運命を変えたいかどうか、変えるといいことがあるのかどうかはべつとして、0.1%でも可能性があるならそれで十分。
ワールドカップサッカー、リーグ戦も終盤。
ウィンブルドンテニスが始まり、ツールドフランスと全英オープンゴルフが目前。スポーツまっさかり。
サッカーって、どっからどこまでが、反則なんだろうか。。。
卒倒するくらい臭い・・・とか。
ゴールと同じ大きさのキーパーグローブとか。
妙に粘着力のあるグローブとか。
妙にぬめぬめする服とか。
FIFAが採用している競技規則を読んでみたところ・・・。
意外にも、A4で50ページほどで簡潔に書かれた競技規則だった。
選手が身につける用具についての規定は、約ページほどで、危険なものはダメよといった感じ。
というか、スローガンや広告のついたインナーは着ちゃダメらしいことが詳細に書かれてます。
あからさまに、デカいキーパーグローブは、まあ、危険と言えば危険なので主審が警告できる規定になっているのだと思いますが。
それにしても、競り合ってるときに耳に息を微妙に吹きかけるとか、触るか触らないかくらいでお尻をさわさわするのは、どの時点で反則になるのかとか、試合前に呪いの儀式をやっていたらどうなるかとか、疑問はつきませんが。
ちなみに、FIFAのルールでは、7人以上がピッチにいれば、ゲームが開始されるそうです。「今日は、ちょっと7人で戦ってみるか?」と言って故意に7人で試合開始しようとした監督が・・・いるのではないかとふんでいるのですが、どうでしょう。。。
それは、ともかく。
スポーツを楽しむには、ルールは必要ですが、いかに最小限の規則にとどめるかも重要です。
家庭も会社も友人関係も趣味も。楽しもうと思えば、最小限のルールにとどめるかが重要。
いちいち、グローブの大きさまで規定して、メリットがあるのかというと、そうそうはないってことです。
言わずと知れた、APPLEのCEOスティーブ・ジョブズ。
ディズニーの大株主というだけでも、なんかスゴイ。
彼のプレゼンテーションは、毎回やるたびに磨かれている気がする。
毎回ジーンズ姿で、自社製品を立て板に水でプレゼンする。
新製品の発売国、数十カ国、新機能数十・・・まるで、すべてが彼のあたまのなかに整理されているように。
うーん、むかしは、もうちょっとたどたどしいところもあったのに。
人間、なんでもやればできないことはない・・・というのを感じさせられます。
あるいは、あの眼鏡に秘密があるか、どちらかだと思ったり思わなかったり。
あの眼鏡の内側では、プレゼンのスライドが外から見えないようにながれているのでは。。。
来年くらいには、iEyeとか売り出すのかも。。。そんなわけない。
そんな彼も、Apple以外の会社経営ができるか・・・というとそうでもないのがおもしろい。
運命っておそろしい。
リバースマップセミナーを沖縄で開催中です。
移動の飛行機で聞いたところによると、沖縄は梅雨で梅雨前線まっさかりのようですが。今日は、快晴。
ワールドカップサッカーもはじまって。サッカーが終わったら7月からはツールドフランス。眠れません。
つねに別のオプション/道は、あります。
どんなに絶望的な状況でも、例外なくオプション/別のみちがある。
これって、けっこう、過酷な状況です。
毎日が冒険映画みたいなことなので。
失敗した!
アクシデントがあった!
問題が発生した!
いいことがあった!
わるいことがあった!
と思いきや。。。
そう思っているのは、本人だけで、結局、映画は選択しつづけて向かうべきところへ向かいます。
悲観的な結果でよしとすれば、そのままそこへ向かうし。
別の道を真剣に探せば、それもまたそこへ向かうことになるし。
じゃぁ、どっちがええんかい? となると、そりゃぁもう、本人の選択しだい。
悲観的な結果がわるいわけではないし。
別の道で冒険がつづくのもかならずしも善というわけでもないし。
バランスを考えると、なりゆきにまかせていいものはまかせて、どうしてもここはこうしたいという部分は、意思で方向付けしてあげる。
というのが、ちょうどいいのかもしれません。
なんでもかんでも、自分の思いどおりに強い意志で実現しても・・・、それはそれでおもしろくないし。
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